〜インコグニート35周年〜 ブルーイ、インタビュー | News & Features | BLUE NOTE TOKYO

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〜インコグニート35周年〜 ブルーイ、インタビュー

〜インコグニート35周年〜 ブルーイ、インタビュー

活動35周年を迎えたインコグニート。
リーダーであるブルーイにロンドンでインタビュー

 アシッド・ジャズ~ジャズ・ファンク界のトップを走り続けるインコグニートがこの夏、"ヴォイス・オブ・インコグニート"ことメイサをスペシャル・ゲストに迎えてアニヴァーサリー・ライヴを敢行。アニヴァーサリーを祝して中心人物であるギタリスト兼プロデューサーのジャン=ポール'ブルーイ'モニックにインタビュー。インコグニートが今もなお絶大な人気を得る"理由"がたっぷり詰まった深い話となった。

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ーーインコグニートの作品の中で敢えて最高傑作というならどの作品ですか。 あるいは、愛着のあるアルバムなど。

「アルバムは全部、時間と愛情と情熱を注いだ子供みたいなものだから選ぶのは難しいね。「何人目の子供が一番好き?」って聞かれてるのと同じで。でも言えるのは、初めての子供は一生に一度の経験。そう、初めてのアルバムが僕の代表的なアルバムだし、自分の旅の原点だね」

ーー長く第一線で活躍し続けるには何が大切ですか。

「人生と音楽のバランスを考えなければいけない。時には人生を犠牲にしてしまう事はあると思う。僕は前の家族を傷つけてしまった事もある。でも音楽を止める事ができなかった。あとは常に新しい事にチャレンジする事だね。同じことの繰り返しでは成長が止まってしまう。例えば自転車があったとして、僕ならもう1個タイヤを付けてみたらどうなるかって考えてしまう。新しいタイヤとバランスをとりながら、よろめいたり転んでしまう事もあるけど、そこから新しい世界が見える事もある」

ーーキャリアをふり返り、音楽家としての節目と感じる出来事、重要だった出会いはありましたか。

「好きなアーティスト、話してみたかったアーティストだったのに話をしてみるとガッカリする人間性の人もたくさんいたけど、もちろん重要な出会いもたくさんあった。名前を挙げるならチャカ・カーンかな。ずっと好きなアーティストで、今僕がミュージックディレクターをやれてるのはマジックみたいなもの。人間的にも素晴らしい人で僕の天使。よくお世話になってるよ。

会った事がない人にも深い影響を受けた。例えばマーティン・ルーサー・キング・ジュニア。彼はいつか殺される事を分かってたと思うけど、それを恐れずに憎悪が溢れてる世の中に立ち上がった。自分の苦しみを犠牲にしてアクションを起こした。ネルソン・マンデラもそう、ガンジーもそう。彼らは自分の苦しみを犠牲にできる人。どんな障害物があっても事を起こすためには飛び越えていくしかない。彼らはそうやって壁を飛び越えてきた人達、僕もそのレベルに達したい。飛び越える準備はできてるし飛び越える事ができると思うよ」

ーー若い頃の音楽活動について教えてください。

「楽器をはじめたのは、9歳くらいかな。音楽のセオリーは一度しか習った事ないけど耳が良かったみたいで聞いた音は何でも吸収できた。その後ジャムセッションに飛び入りするようになった。その時はバンドはギャングみたいなもので、僕の事がきらいなバンドもいてライヴ前にサウンドチェックさせてもらわなかった事もたくさんあるよ。寮制の学校に行ってたからストリートとのミュージシャンとはバックグラウンドが違ったからね。バンドの人数というよりもセッションの人数が多かったね」

ーー今の大所帯の編成は最初からの構想だったのでしょうか。

「インコグニートはバンドではなくコレクティヴ、バンドメンバーを毎回固定するのではなく、 コレクティヴとしてセッションごとにミュージシャンは変える。面白いと思えば大人数でも使う。一年で何百人とセッションした事もある。今まで2000人以上のミュージシャンと演奏したよ。インコグニートという名前の意味は匿名の人という事。ライヴに来ても誰が誰だか分からないという事。特に人数にこだわった事はないけどね。良いステージに、良い作品にしようとして自然とそうなったよ」

ーーライヴごとにその時の方向性によってミュージシャンを選ぶという事でしょうか? メンバーを選ぶ際の基準はあるのでしょうか。

「そうだね。音楽はケミストリーだからね。例えるなら気になる女の子がいてデートしてみても自分とその子にケミストリーが働かない事がある、だから別の女の子とでかけてみる。その子の妹と出かけてみるとか(笑)、その子のママと出かけてみるのもいいかもしれない(笑)。ミュージシャンを選ぶという事もそういう事。常にミュージシャンを探しているし、新しい人たちもチェックしてる。インコグニートとケミストリーをおこしてくれるミュージシャンしか選ばないようにしているし、それが僕のメインの仕事だよ」

インコグニートは元々、70年代に結成されたファンク・バンド、ライト・オブ・ザ・ワールド(Light of the World)のメンバーであったブルーイとポール 'タブス' ウィリアムス (Paul 'Tubbs' Williams)の2人で結成されたバンドで、80年代から作品を発表していた。
"THE VENUE"はインコグニートのスタート地点とも言えるライブハウスだ。

ーー自分より若い世代に、注目している音楽家はいますか。

「新しいバンドが新しいやり方で自分たちを表現してるのはいつも刺激になる。ディアンジェロのセカンド『ヴー・ドゥー』を初めて聞いたときは衝撃だったよ。スタイルを真似しようかと思ったくらい。他にはスタジオから帰ってきて、息子がベッドルームでエイフェックス・ツインを聞いている時も音楽が頭の中に入ってきて何が起こっているか分からなかったね。最近ではオーストラリアのソウルバンド、ハイエイタス・カイヨーテがお気に入りだね。彼らはネクストレベルだよ」

ーーリスナーとして今聴いている音楽、長く聴き続けている音楽を教えてください。

「初めてイングランドに住み始めた時は他とは違う音を聞いたときに反応してたね。ジェームス・ブラウンとジミ・ヘンドリックスずっと聞いている。子供の時、弟と一緒に楽器屋に行った時に本物のジミ・ヘンドリックスを偶然見て、彼がギターを弾いてるのを見たときこの人は本物だと思ったね。マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーもずっと聞いている。その後14歳の頃、アメリカだけでなくイギリスからもたくさん良いアーティストがいる事が知った。その後アヴェレージ・ホワイト・バンドが好きでまだクラブに行ける年齢じゃなかったけどうまく忍び込んだら、店員と思われたみたいでチップをもらったね(笑)。将来彼らと一緒に仕事するとは思わなかったよ。」

ーー今までで、思い出に残っているライヴは?

「福島の震災と津波の2週間後のブルーノート東京でのライヴは思い出に残ってるよ。悲しいスタートで、たくさんのオーディエンスが泣いていた。でもライヴの最後に皆に笑顔が戻って来た時の気持ちは忘れられない。自分と日本との関係のハイライトになったよ。ライヴの後、福島に行った時はボランティアの人に感動した。政府が何かやる前に皆で助け合ってた。津波や地震で皆が避難した時に誰も盗みを働かないのも驚いた。何が起こっても動物になるんじゃなく人間であり続ける日本人の魂に感動したよ」

ーー衝撃を受けたライヴはありますか。(インコグニート、自身以外のライヴで)

「いつも衝撃を受けているけど、先週末に見たグレゴリー・ポーターは初期のスティーヴィー・ワンダーやマーヴィン・ゲイに匹敵するライヴだったと思う。彼は踊るわけでもなく只マイクの前に立って歌ってただけなんだけど、自分のスタイルが本当に確立されてた。あとはさっきも名前を挙げたハイエイタス・カイヨーテもそうだし新しいジャズのシンガーで言うとレイラ・ハサウェイのステージも素晴らしかった。新しいジャズについて皆がどうのこうの言ってるけど、彼女は本物だと思う」

ーー現在のジャズ/音楽シーンについて率直にどう感じていますか。

「若いミュージシャンがそこら中でジャムセッションしていてすごくいいと思う。70年代の雰囲気が戻ってきていると思う。リハーサルばかりするんじゃなくて、とりあえず俺が演奏して良い感じにしてやるよっていう奴らがステージ上がってくるし、そういうメンタルが復活してきたのは嬉しいね。すごく良いコンディションだと思う。ジャズフェスティヴァルも数えきれないくらいあるし。皆ポップやロックのフェスティヴァルに行くから知らない人も多いんだけど、今は本当に素晴らしいジャズフェスティバルが数えきれないくらいある。先週末のフェスティバルでもステージ下りた時14〜15歳くらいの子がたくさん僕のところにきて素晴らしいって言ってくれた。彼らの情熱を見てると未来は明るいと思ってくる。僕のセッションに参加してるパーカッショニストも22歳だし、30になったばかりのドラマーもいるけど凄いいいプレーヤーだよ。ポップ音楽については、いつの時代にもある事なんだけど毎日フィッシュ&チップスだけでいい人もたくさんいるって事かな。野菜取らないしビタミンも取らない、それはしょうがないんじゃないかな。僕はフィッシュ&チップスは1ヶ月で1回でいいし人参や緑の野菜も取るけどね」

ーーあなたの人生において、音楽はどんな役割を果たしてきましたか。

「音楽の意味、象徴してるものが大好きだ。自己中心的な考え方だけど、自分は中毒だと思う。音楽と人生とのバランスを取らないといけないんだけど正直自分の家よりもツアー先のホテルが好きだし、家のソファーよりもツアーバスが好きだし家族も大好きだけど家族と同じくらい音楽が好きだからツアーは止められない。家族もその事を知ってるんだけどね。同じ場所で毎日朝を迎えたくない。音楽っていうドラッグが僕には必要。相当なジャンキーだと思うよ。(笑)」

ーー音楽家でなかったら何になっていたと思いますか。

「他の人と違う事ができると思うし、一番になるために努力できるから僕がレストランやってても他と違う良いレストランだと思うし、ジャズクラブをやれば一番いい箱になってたと思うよ」

ーー今後のビジョンを教えてください。

「同じ事の繰り返しはしたくない。僕がやりたい事を例えるなら朝日と夕日みたいなもの。ツアー中は早起きしてよく朝日を見に行くんだけど同じ朝日を一回も見た事がない。夕日もそう。毎日違うストーリーがある、僕はそのストーリーを追いかけたいんだよね。

あと人生には何かにつけて前兆がある、前兆がなければ事は起こらないし、前兆、予兆を見る事ができてないとチャンスを逃してしまうと思う。車を運転してる時、老人が道をゆっくり歩いて来て、それを「おじいちゃんが歩いてて邪魔だな」ですませるか、車を降りて話してみるか、それが一番の出会いになる時もある。いつもそういったサインを常に見て準備しておかないとね。僕にも今後さらなる変化が待ってると思っているよ」

インタビューは、ブルーイが何十年も懇意にしているストーク・ニューイントンにある小さなカリブ料理店にて。

ーーブルーノート東京での思い出は? 初登場は1999年12月です。

「思い出がはたくさんあるね。シェフ、バーテンダー、スタッフが素晴らしいっていう事実を知らない人も多いと思うけど、そこがブルーノート東京の魅力。日本の真のおもてなしの心を見せてくれてる。スタッフが良く世話をしてくれるから良いアーティストがまたライヴしに戻ってくるんだと思う。いつも話すバーテンダーがいたんだけど彼は僕の先生みたいなもの。毎回行く度に今流行っている言葉やジョークを教えてくれるしそれをステージでやれば笑いが取れる。(笑)」

ーー日本のオーディエンスはインコグニートにどんな影響をもたらしますか。

「初めてライヴした時はヨーロッパでやる時とリアクションが違うから戸惑った。今でこそスタンディングの箱が増えたけど、ブルーノートはその当時まだ座りだったから、正直自分達の演奏が受けてるのか分からなかった。10年以上日本でライヴしてきて、オーディエンスも変わってきて、良い演奏に対する反応が早くなったと思うよ。東京だけでなく大阪、福岡とリアクションが全く違うのが面白いね。

ファンと話す時、よくヨーロッパでは「インコグニートのアルバム全部持ってるよ」って言われるんだけど、何枚か聞いたら大体5〜6枚くらい。(全アルバム数は16枚)日本で「全部持ってるよ」って言う人は16枚だけでなくブートレグも含めて本当に全部持ってる。(笑)」

ーー日本と関わって得たものはありますか

「日本は僕の人生を変えたものの一つ、人、文化、姿勢、態度、僕の人種のバックグラウンドは1/4インディアン、1/4アイリッシュ、1/4アフリカン、1/4フレンチマッドだよね。(笑)違う文化のルーツを持ってる僕にとっては、日本の文化は新鮮だし素晴らしいコントラストだね。子供の時って女の子のシンガーに恋したりするよね。僕はサディスティック・ミカ・バンドのミカに恋をした。1975年、にサンタナのライヴで前座をやっていて、僕はあんまり前座からは見ないんだけど日本から来るって聞いたし、名前にも惹かれたから見に来た。その時の体験は人生を変えたって言っても大げさじゃないと思う。彼女はワイルドだし、音楽は誰もやってない音楽に聞こえたし、こんな人たちがいるなら絶対に日本に行きたいって思ってたね。

初めて日本をツアーした時はプロモーターから止められたけど、赤字覚悟で行ったよ。当時あった西麻布のイエローでギグがあったんだけど、フロアが半分埋まればいいと思ってた。その日、イエローに向かう途中に大通りをまたいだ行列が遠くからできてて日本人って真っすぐに列を作るんだなあとか、何があるんだろと考えてたらその列がイエローに向けての列と気付いた時は感動したよ」

photography = Sash Bartsch
text = Hiroshi Takakura

高倉宏司(たかくら・ひろし)
京都市出身、7年前に渡英しロンドンを中心とした現地の生きた音楽シーンをリアルタイムで体感、DJ/イベントオーガナイザーだけでなく雑誌やCDライナーノーツ等での翻訳と執筆活動により幅広い音楽情報を発信中

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