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[インタビュー|OFFSTAGE]シンディ・ブラックマン・サンタナ

[インタビュー|OFFSTAGE]シンディ・ブラックマン・サンタナ

トニー、アート、エルヴィンの支えで今があります。

 ドラマー、そしてカルロス・サンタナの妻としても知られるシンディ・ブラックマン・サンタナ。5月に3日間6公演行った彼女はレジェンドたちに支えられキャリアを重ねてきた。

「私はドラムスを叩くために生まれてきました。本気でそう思っています」

 シンディ・ブラックマン・サンタナは物心ついたときには、常に何かを叩いていた。

「目の前にあるものをなんでも叩きました。幼いころ、母親におぶさっているときも、その背中を叩いていた。リズムをくり出すことが大好きでした」

 ドラマーになりたいと思ったのは4歳のとき。

「父がジャズのレコードをたくさん持っていたんです。家にあったマイルス・デイヴィスのアルバム『マイルストーンズ』を聴いて、"フィリー"ジョー・ジョーンズが大好きになりました。あのころ、自分もドラマーになりたいと思った」

 次に夢中になったが、トニー・ウィリアムス。

「14歳のころ、マイルスの『マイルス・デイビス・イン・ヨーロッパ』と『フォア& モア』を聴いて、トニーに夢中になりました。私のヒーローです」

 16歳のとき、トニーのクリニックに参加するチャンスが訪れる。シンディが暮らしていたコネカットの楽器店にトニーがやってきたのだ。

「うちは貧しかったけれど、母親に頼んで頼んで、なんとか参加費を捻出してもらえたんです」

 トニーを目の前に、シンディは我を忘れた。トニーが質問を募ると、無我夢中で手を挙げた。

「ところがトニーが私をあててくれたのに、何も言うことができませんでした」

 クリニック後は出待ちもしたが、トニーが出てきても「Hi!」と言うだけで精いっぱいだった。

「トニーと話ができたのは、プロのドラマーになってからです。ワシントンD.C.のジョン・F・ケネディ・センターのフェスで一緒になりました。トニーがブラシを忘れたことを知り、私のブラシを貸して、そのままセッティングやチューニングなど、ローディーの仕事をやらせてもらいました」

 コネチカットで、トニーはウォレス・ルーニーのアルバム『ヴァーセス』の録音にも参加した。

「私はまたローディーを務めて、しかも曲も採用してもらいました。タイトルは「フロート」。ラウドなイメージでつくった曲でしたが、トニーはスローに叩いた。これ、ほんとうに私が書いたあの曲!? 信じられないほど、美しくかわいい曲になりました」

 シンディはレジェンドたちから愛されてきた。

「若手で仕事がないころは、アート・ブレイキーの家でベビーシッターをやらせてもらいました。アートには演奏のことやドラマーがツアーに出るときのパッキングまで教わっています。エルヴィン・ジョーンズもいつも励ましてくれました。レニー・クラヴィッツのバンドで6か月ヨーロッパツアーに出るとき、私はとっても不安でした。半年もジャズから離れて大丈夫かしら、と。そんなときも力づけてくれました。エルヴィンには21インチのシンバルをもらって、そこにサインも書いてくれた。彼がこの世を去ったのは、その直後でした。多くのドラマーに支えられて、今私はこうして演奏しています」

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Photo by Makoto Ebi

CINDY BLACKMAN SANTANA GROUP featuring ZACCAI CURTIS, AURÉLIEN BUDYNEK & FELIX PASTORIUS
2019 5.8 - 5.10
CINDY BLACKMAN SANTANA
(シンディ・ブラックマン・サンタナ)
1959年、オハイオ州生まれ。夫はカルロス・サンタナ。バークリー音楽大学でアラン・ドーソンに師事し、アート・ブレイキー、エルヴィン・ジョーンズ、トニー・ウィリアムスらと交流を深める。レニー・クラヴィッツのツアー・ドラマーを2004年まで務めた。

photography = Hiroyuki Matsukage
interview & text = Kazunori Kodate
interpretation = Kazumi Someya

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